篤山と孔子と

論語の章句に、こうある。

 

 

伯牛(はくぎゅう) 疾(やまい)有り。

子 之を問ふ。

牖(まど)自(よ)り其の手を執(と)りて曰く、之ぞ亡からん。命なるかな。斯(こ)の人にして、斯(こ)の疾(やまい)有り。斯の人にして、斯の疾(やまい)有り、と。

 

 

弟子の伯牛が重い病気に罹った。

孔子は見舞いに訪れた。

孔子は病室の窓から手を差し入れて伯牛の手を握って言った。

こんなことがあってよいものか。運命だ。この人が、このような疾(やまい)に罹るとは。この人が、このような疾(やまい)に罹るとは。

 

 

伯牛は孔子の弟子ので冉耕(ぜんこう)。

伯牛は、当時は不治の病とされていたハンセン病に罹ったとされている。そのため、伯牛は人に会おうとしなかった。

伯牛はその徳行を讃えられ、顔回や閔子騫に次ぐ存在だったのだという。それゆえに孔子の嘆きも一際大きいものだった。

 

朱子は、孔子が窓から手を取ったのを、病気のせいではなく、礼の問題だったと解釈する。

牖は南の窓であり、孔子を南から迎えるのは、病人が君主に対して行う礼であるから、孔子はそれを受けなかったのだ、と。

しかしここは素直に伯牛が自分の姿を見られたくない、という思いから、とみる方が自然であろう。

ハンセン病に対する認識も今とは異なり、偏見も強かっただろう。人々は恐れて近寄ろうとはしなかったに違いない。

そんな中で孔子は伯牛の手を握って嘆いたのである。

その孔子の心からの嘆き、そしてそれを聞く伯牛の思い。れらを思うと、胸が痛む。

 

 

 

ところで、江戸時代の愛媛、伊予小松藩の儒学者、近藤篤山に、次のようなエピソードがある。

ちょっと見て欲しい。

 

ある時、篤山の弟子の安藤という者が伝染病を患った。

その日の朝、安藤はその病がひどく、「もはや起き上がれなくなるだろう」と思って、伝染病に罹ったことを、人をやって篤山に告げに行かせた。

すると篤山は急ぎ駆けつけてきて安藤を励ました。

「意気地のないことを言うな。治らぬ病気ではなかろうに」と。

そして家人に医薬、湯粥を怠ることなく与えるように申し伝えた。

 

それから毎日、藩校の講義の後に必ずやってきて、炉端に座り、昼過ぎになって帰っていくことを繰り返した。

その頃は、安藤の親戚も近隣も、伝染病を恐れて誰も近づこうとしなかった。わずかに朋友、同僚が看病に来てくれただけ、という状況であった。

篤山の励ましと家人の看病もあり、次第に安藤は回復していったのである。

 

安藤はこの様子を、家人が看病を怠らぬか心配で見に来たのだろう、と後に述懐しているが、篤山が安藤を心配して気づかい、励まそうとの行動であったことは言うまでもなかろう。

篤山は当然論語も熟知しており、孔子のこのエピソードを知っていたはずである。

 

篤山が頭でっかちの単なる学者ではなく、徳行天下第一とまで評されたのは、このエピソードのように、自らそれを実践するところにこそあるのである。

ただ孔子の真似をした、という訳ではない。

自分自身も感染するかもしれない、ということなど気にもせず、ただひたすらに安藤の回復を願い、毎日見舞ったのである。

 

 

論語を、儒教を学ぶことの本当の意味はここにあるのだと、私は思う。

良く学び、それを実践する。

実際の自分の行動で示す。

徳の感化、というが、要するに仁愛、人間愛の伝播である。

形式だけやれば良いのではない。

他人を本気で思いやる心をもって、行動する。徳を実践する。だからこそ、近藤篤山は徳行天下第一と評され、伊予聖人と讃えられたのである。

これこそが、君子、教養人なのだと思う。